日本さくら名所100選

郡山城址

郡山城址と枝垂桜の写真

日本さくら名所100選に選定されている郡山城址。この地は遠く奈良時代には薬草を育てる薬園が営まれていたといわれている。桜が最初に植えられたのは豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長入城の頃。現在の奈良県桜井市南部にある多武峰の桜を移植したとされる。江戸時代になってからは幾度も桜樹の補植を行い、美を競うようになって「御殿桜」と呼ばれるほどだった。ここに咲き乱れる桜はひときわ美しいが、郡山城の歴史はどちらかというと華やかなものではなかった。

郡山城址の写真

最初に城が築かれたのは10世紀後半だが、時の支配勢力によって城主が安定せず、象徴性が薄いためか城そのものへの関心が高いとはいえず、江戸時代、米騒動や大火で城下町ごと焼失して以降、再建もされず、明治6年には郡山城は破却された。現在残っているのは石垣や塀のみで、1960年になって、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年に追手門が、翌年に追手東隅櫓が、1987年には追手向櫓が市民の寄付などによって復元された。

郡山城は戦国時代、郡山辰巳から織田信長の援助を得る筒井順慶、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城するが、豊臣秀長が亡くなると、その養子である豊臣秀保も急死、100万石城の時代は短かった。
徳川家康が天下統一を叶えようとする時、郡山城を舞台とする“郡山城の戦い”が行われるが、実際は当時の城主・筒井順慶が戦う前に城を捨てたため、大決戦の舞台とはならなかった。その後、水野勝成、松平忠明、本多政勝が城主となり城郭の主要部分は修復・完成していった。最盛期には武家屋敷、町屋とも発展し、城下の家数は4,700軒、人口2万人を超えるまでに至った。しかしその後、騒動や大火事が続き、柳沢吉里が入城した頃には一時安定期を迎えるが、1787年に大飢饉となり米騒動が起こった。群衆は城下町の民家を打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎまでになり、1858年には住居関係の建物群がすべて焼失する大火が発生。当時の藩も城の修理を行わないことを出願し政府もそれを聴許、郡山城は長い歴史に終止符をうつことになった。

郡山城址  桜八景

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郡山城址の桜の写真

郡山城址の桜の写真

郡山城址の桜の写真

郡山城址の桜の写真

郡山城址の桜の写真

郡山城址の夜桜の写真

郡山城址の夜桜の写真

郡山城址の夜桜の写真